2023年夏の甲子園において、土浦日大高等学校が初のベスト4入りを決めました。
土浦日大高等学校の野球部監督は、名監督として知られる木内幸男監督の教え子です。
木内幸男監督が取手二高時代に全国制覇をした時のメンバーの一人が、
現在の土浦日大高等学校野球部の監督、小菅勲監督なのでした。
小菅勲監督のプロフィールや経歴をまとめました。
土浦日大の小菅監督のwikiプロフィール
名前:小菅 勲(こすげ いさお)
生年月日:1966年度生まれ
出身:茨城県常総市
学歴:茨城県立取手第二高校→法政大学
経歴:町役場公務員→県立高校教員
小菅勲監督は、取手第二高校へ進学し、甲子園優勝を経験しています。
名監督として知られる木内幸男監督の教え子ということで注目を集めています。
土浦日大の小菅監督の年齢
小菅勲監督は、1966年生まれで、2023年で57歳になるようです。
土浦日大高等学校へは、50歳のときに赴任しています。
土浦日大の小菅監督の出身地
出身地は茨城県水海道市(現在の常総市)です。
常総市は、鬼怒川が流れる田園に囲まれた自然豊かな場所です。
この自然に溢れる土地で、小菅勲監督は野球少年として夢中になって、
走り回っていたのでしょう。
土浦日大の小菅監督の学歴
小菅勲監督は、茨城県立取手二校に進学しています。
1940年 茨城県立高等女学校
1948年 茨城県立取手女子高等学校
1949年 男女共学を実施、茨城県立取手第二高等学校に改称
1984年 第66回全国高等学校野球選手権大会優勝
第39回国民体育大会で硬式野球部が優勝
取手二校で甲子園優勝経験
小菅勲監督は、取手二高時代には9番・3塁手で活躍。
甲子園決勝は、あの桑田真澄投手と清原和博選手率いるPL学園を倒しての優勝。
桑田真澄投手と清原和博選手が、PL学園時代の高校3年間の甲子園で、
唯一負けたのが取手二高だけだったのでした。
土浦日大の小菅監督の経歴
小菅勲監督は、取手二高を卒業後、法政大学に進学しました。
法政大学では野球を継続していたようですが、
取手二高で、全国制覇を達成し、燃え尽きてしまったようです。
大学を卒業する際は「野球はもういい」という気持ちが強く、
大学卒業後は野球とは関係ない道へと進んでいます。
町役場勤務の公務員
法政大学卒業後は、地元茨城県の伊奈町(現在のつくばみらい市)の町役場職員として働く、公務員になりました。
役場のソフトボール大会でに参加した際に、野球で勝利した時の喜びを味わい、
再び野球への情熱が込み上げてきたとか。
その頃、取手二高の恩師・常総学院の監督に就任していた木内監督から声が掛かり、
木内監督の元でコーチをしながら教員免許の取得を目指し始めたというのです。
県立高校教員へ
小菅勲監督は、26歳の時に教員免許を取得。
27歳の、1993年(平成5年)に茨城県立伊奈高等学校に赴任し、教員生活が始まりました。
念願叶って、野球部の顧問としての活動がはじまったのでした。
一度は公務員という職に就き、野球の勝利の味を忘れられずに教員免許取得から、
夢を追いかける熱量は感銘を受けるほどです。
そして、高校野球の監督としての実績は、
赴任した県立伊奈高等学校を3年後に、県大会準優勝にまで導くという、
驚くほどの采配を収めていたのでした。
27歳から50歳まで、茨城県立高等学校の野球部監督を務め、
50歳で、私立土浦日大高等学校からオファーがきて、県立高校教員を退職し、
私立土浦日大高等学校の監督へと就任しました。
土浦日大の小菅監督の家族構成
小菅勲監督の家族構成は、奥様の存在は分かっていますが、
こどもについては、公表されていませんでした。
奥様とのエピソードをインタビューで答えていました。
小菅勲監督は、50歳で土浦日大高等学校からオファーをいただいたとき、
県立高等学校の教員を退職しなければならないため、迷った期間があったといいます。
50歳にしての転職ともいえるので、決断するのに時間が必要だったのでしょう。
そのとき、奥様に相談したとインタビューで答えていました。
女房に相談したら『いいんじゃない。やりたいんでしょ?』と。そんな後押しもあって、決断できました。
日刊ゲンダイDIGITALより引用
小菅勲監督を理解している奥様だけあって本人より決断が早いようです。
小菅勲監督の奥様について詳しい情報はありませんでしたが、
小菅勲監督を支える良妻賢母に感じます。
土浦日大高校の小菅勲監督のさらに詳しい経歴や指導実績は、別の記事にまとめてあります。
コメント