芸術の回廊

紀元前4000年、古代メソポタミアで生まれた「ガラス」。その後、紀元前1世紀後半にエジプトのアレクサンドリアで、ガラス器製造の基本技法・宙吹き (吹きガラス) と呼ばれる製造法が発明された。現代においても使用されるこの技法によってガラス食器や保存器の生産が容易になり、一般にもガラス器が広まるようになった。続きを開く古くから窯業と深い関わりがある山陽小野田市は、窯業の1つであるガラスをコンセプトとしてまちづくりを進めている。2001年に始まった『現代ガラス展in山陽小野田』は、3年に1度開催される若手ガラス作家の登竜門に位置付けられ、2020年には第8回目の開催が控えている。ガラス製作体験やガラス作家と子どもたちのコラボ作品などの鑑賞が楽しめる『きららガラス未来館』と、そのすぐそばにある客席全面がガラスで覆われたレストランは隈 研吾氏の設計。ここから、日本の夕陽百選に選ばれた焼野海岸の夕陽を眺めつつグラスを傾けるひとときは、最高の贅沢だ。 高度経済成長期に急激に発展した宇部市では、経済的な成長に伴い発生した公害克服のため、1950年代より緑化運動が始まった。その際の寄付金の余剰で彫刻作品を購入したことがきっかけとなり、彫刻を街に設置する運動が起こり1961年に『宇部市野外彫刻展』が開催された。これが日本におけるパブリック・アートの起源であるとされる。2009年に『UBEビエンナーレ』と名称を変えるも、そのスタイルを守り続け、2021年には60周年を迎えようとしている。同様の彫刻をテーマとした芸術祭、ドイツ・ミュンスターの『彫刻プロジェクト』は、1977年から10年に一度市内各所を会場に開催し、世界中から多くの観客を集めている。公共空間と芸術作品の関係性をテーマとするこの芸術祭に出品される作品は、彫刻や芸術の概念を拡大し、社会にインパクトを与えるような表現がほとんど。ミュンスターと比較すると、宇部市の試みは、よりものづくりへの賛美に近い指向性を持っているのではないか。街じゅうに点在する彫刻を見るたびに、殖産政策と深く関係するこの地だからこそ、続いてきた意味があるのだろうと強く感じる。 メディアアートや先鋭的なアートに特化した施設である山口市の『山口情報芸術センター [YCAM]』は、新しい芸術表現や教育プログラムを制作し発信する場として全国から注目されている。ここYCAMでおこなわれていることは、芸術分野の発展を担うだけではなく、テクノロジーの発展がもたらすさまざまな変化に向けた社会実験の場、R&D (研究開発) の役割を担っているともいえるだろう。YCAMと地域住民の関係に目を向けると、「ともにつくり、ともに学ぶ」を活動理念としながら、市民や多様な分野の専門家とともに、メディア・テクノロジーとの適切な向き合い方、文化基盤としての情報の可能性、さらには人間にとっての情報の意味について、YCAMは幅広いアプローチで探求をおこなっている。そして、この過程で生み出される表現や学びを世界に向けて発信し、次世代を担う人材の育成に寄与することを目指している。 これらの取組は日本の近代化から現代にかかる社会や時代を映す鏡のようなもの。アトリエで顔料を混ぜカンバスに向かうことが一般的だった時代、絵の具のチューブの発明は大きなイノベーションだった。解き放たれた画家たちは屋外へと出てありのままの世界と向き合うようになった。自然光に溢れ、儚い一瞬の美しさを捉えることによって生まれた傑作は、印象派として100年の時を経ても我々を魅了してやまない。思えば、芸術とは常にその時代や産業の発展とともに歩んできた、もしくは相互に影響を与えてきた歴史を持つ。
『芸術の回廊』では、芸術と社会の関係性について新たな発見を生み、時代を前進させ、世界に発信する、そんな力強くエッジの効いた企画を実施したい。
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祈りの回廊

1442年に建立された国宝『瑠璃光寺五重塔』は、京都の文化と大陸文化を融合させた「大内文化」の象徴である。瑠璃光寺の近辺には『洞春寺』、『八坂神社』、『龍福寺』など多くの神社仏閣があり、風水に則した四神相応のまちとともに、文化・芸能を重んじた大内文化の栄華をいまに伝える。続きを開く宣教師フランシスコ・サビエルは大内家当主 義隆に謁見し、1551年に山口で本格的に布教活動を開始した。その滞在中におこなわれた「山口宗論」では、仏教とキリスト教とが対峙し互いの教理を討論した。この哲学対話の場は異なるものの見方に触れ、多様性を受容する第一歩となった。 741年に建立された防府市の『周防国分寺』は、「国泰らかに人楽しみ、災除き福至る」との聖武天皇の詔によって、諸国に68ケ寺建立された官立の寺院の1つである。焼失もあり幾度か再建されているが、創建当初の境内に、令和の現在もそのままの寺域が残っているのは全国でも珍しい。国指定の重要文化財である金堂も、1779年に毛利重就によって再建されたものであり、創建当初からその位置が動いていない。室町時代の薬師如来坐像を本尊とし、他に平安時代初期の日光・月光菩薩、藤原時代初期の四天王など、いずれも見事な仏像を数多く安置している。現在、海外からも多くの観光客が訪れるこの金堂内には、写経のための部屋が設けられている。 キリスト教弾圧政策の真っ只中にあった1868年以降、津和野町は多くのキリスト教信者を受け入れた。これは津和野藩出身の国学者で、明治政府の宗教政策を担っていた福羽美静が、処罰ではなく説諭によって改宗させるべきだと提案したためである。結果として、その後の津和野では厳しい弾圧による悲しい歴史が刻まれることとなるが、その事実が国際的に報道されたことによる英国公使の改善要求や、不平等条約改正に向けた岩倉具視らの交渉により、1873年、江戸時代初期以来つづけられてきたキリスト教に対する禁教政策に終止符が打たれた。日本を近代化に向かわせる大きな出来事のあったこの場所では、毎年5月3日に野外ミサが執りおこなわれ、祈りを捧げる聖歌が山中に響き渡る。 生きるために祈り、祈ることで生きられた。
祈りとは、未来を信じることである。
大内氏とサビエルの絆のように、多様性を受け入れ対話し知恵をあわせ、より良い未来を見出そうとすることが、この地域の祈りの本質ではないか。
『祈りの回廊』では、これからの世界の在り方について、そして、幸福とは何かについて多くの人々とともに考えていく企画を実施したい。
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の回廊

防府市の『玉祖神社』は、天照大神が天岩戸に引きこもったときに祭式に用いられ、三種の神器の1つに数えられている「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を作った玉祖命(たまのおやのみこと)を祀った神社として、神代の時代から重要な場所とされてきた。 続きを開くまた、学問の神様 菅原道真公を始め4柱を祀る防府天満宮は、日本で最初の天満宮として904年に防府市に建立された。春には梅の花が開き境内を飾る。 防府市はその後も周防国の中心として栄えたが、南北朝時代になると大内弘世が国の中心を山口市に移す。「大内文化」が栄華を極めた室町時代、山口は後に「西の京」といわれるほどに栄え、雪舟をはじめ多くの文化人を迎え入れた。大内文化の最高傑作といわれる国宝『瑠璃光寺五重塔』の周囲には、明治維新当時の長州藩13代当主利敬親などが眠る香山墓所や毛利家中興の祖とされる毛利元就の菩提寺である洞春寺が建つ。
その後、大内家当主 大内義隆は、宣教師フランシスコ・サビエルの来訪を寛容な心で受け入れる。1552年に日本初のクリスマス行事が執りおこなわれたことから、山口市は毎年12月になると「クリスマス市」を標榜している。両者の絆を賛美するとともに、歴史に学び平和で寛容な心の文化が開花し、まちの未来が創造されることを目指し、令和のこの時代も続けられている。
大内氏が滅びた後、毛利輝元が萩に城を築くと、萩市は260年間にわたり長州藩の中心として発展する。萩焼の興りもこの頃で、戦で負けた悔しさをバネに朝鮮半島の技術を研究し、茶人たちをも唸らせる工芸を生み出したと伝わっている。
萩往還を行き来し、山口市の『十朋亭』に集い未来について語りあった幕末の志士は、瀬戸内の開作 (新田開発) などで得た藩の財力を背景に、維新に突き進んでいく。
神代から現代にかけて、この地域の文化は『時の回廊』を往来しながら形成されてきた。時流や情勢などさまざまな条件を取り込みながら、時間をかけてゆっくりと豊潤な文化が醸成されていくさまは、「萩の七化け」にも似ている。『時の回廊』では、悠久の時の流れを感じるさまざまな企画とともに、これからの未来を見つめていく取組をおこないたい。 少なく読む

産業の回廊

太古のサンゴ礁でできたカルスト台地・秋吉台に代表される石灰岩地帯である美祢市は、全国有数の質の高い石灰石の産出量を誇る。露天掘り階段採掘法がおこなわれる巨大な石灰石鉱山が稼働し、近代産業遺産「石灰窯」が市内に点在している。続きを開く石灰窯は、石灰石を焼いて、土壌改良や建築資材などに利用する生石灰を製造するために作られたもの。その石灰を焼くために使用したのが、日本では数少ない中生代の大森林が基になってできた主要炭田・大嶺炭田の石炭である。明治以前に発見された美祢市の黒い石は、石炭としての利用が始まる。その後、国益の一助にしたいという思いで経営に乗り出したのが、日本資本主義の父と称される渋沢栄一である。ここで採れる石炭は黒いダイヤと呼ばれた無煙炭で、戦前の軍艦などの燃料に重宝された。近代日本における大理石の代表的な産地であった石灰岩地帯・美祢市。その礎を築いた本間俊平は、大理石の採掘をしながら、出獄人や不良者、世間から見放された若者達と生活と仕事を共にし、更生指導にあたり、後に「秋吉の聖者」と呼ばれるようになった。我が国で最も古く8世紀から銅を採掘し製錬がおこなわれていた長登銅山。長登の地名は、奈良の大仏鋳造に本地産の銅が献納されたことに由来するといわれる。 宇部興産専用道路は、宇部市と美祢市を繋ぐ同社所有の私道である。宇部興産の創設者・渡邊祐策 (すけさく) は、「いずれは掘り尽くしてしまう有限の石炭を、工業の無限の価値に展開し、地域に永く繁栄をもたらそう」との理念に基づき、工業用地の造成、港湾の整備など、社会が必要とする事業を次々に興し、社会資本の充実に力を注いだ。宇部市発展の基礎を築いた彼の座右の銘は「共存同栄」。事業の収益を宇部のまちづくりに活かし、企業と地域とが助け合い、ともに栄えることを願った起業家精神がうかがわれる。その後、戦災により市街地の大半が焼失したものの、街の再建にかける市民の熱意と戦後の復興景気とともに、順調な復興を遂げ、いまに至る。 殖産興業に力を注いだ旧長州藩士・笠井順八は、小野田の土がセメント製造に適していることに着眼し、1881年にセメント製造会社 (後の小野田セメント、現太平洋セメント) を設立した。明治期から大正期にかけて、セメントはレンガの目地やセメントモルタル塗り建築物、港湾施設などの土木構造物などに広く用いられた。1923年の関東大震災で煉瓦造の建造物が多数倒壊すると、「レンガからセメントへ」という合い言葉のもとでコンクリート造りへの転換が進み、セメント製造業は建設資材産業の主役へと発展した。その後セメントの生産は、新しい技術の導入や経営者・技術者の努力によりさらに発展。全国各地の近代的なインフラの整備に大きく貢献することとなった。現在、国内セメント販売シェア約35%を占める太平洋セメントは、廃棄物や副産物の利活用や、環境負荷低減の推進など環境に配慮した先進的な取組でも大きく評価されている。 江戸時代、長州藩は防長三白と呼ばれていた米・紙・塩の生産・藩外での販売により、大きな利益を得ており、幕末に躍進する原動力となった。特に、三田尻塩は北前船により遠く北陸や東北に運ばれ、「みたじり」が塩の代名詞になった所もあるほどで、三田尻浜はわが国有数の大製塩地であった。製塩には、山陽小野田市・宇部市などの石炭が使用されていた。戦後、防府市は、広大な塩田跡地への化学工場、自動車産業の進出により県内有数の産業都市として発展している。 この地の産業は土地とともにある。『産業の回廊』では、既存の産業ツアーとともに、工芸家やアーティストが企業と協働し新たな可能性を見出したり、工場や倉庫を会場にした展示やパフォーマンスの披露など、産業の舞台や技術が主役としてフォーカスされるような事業を考えてみたい。 少なく読む

大地の回廊

日本最大のカルスト台地・秋吉台。およそ3億5千万年もの年月をかけて生まれた、この自然の造形美は、多くの人を魅了し続けている。かつて赤道付近のサンゴ礁が、プレート運動により北西へ移動。深海の堆積物とともに大陸に付加し押し上げられた。その際にサンゴ礁であった部分が、現在の秋吉台の石灰岩を作っている。続きを開く付加し押し上げられる間に様々な力が加わり、この地の地層は上下が逆転する地質構造となっているところもある。地上では無数の石灰岩柱と多数のドリーネを有するカレンフェルトが発達するとともに、地下では雨水や地下水によって石灰岩が溶かされ、秋芳洞をはじめとする450もの鍾乳洞を形成された。そして現在もまだ洞窟が発見され続けているという。 古来より中国、日本では筆、墨、硯、紙の4種を「文房四宝」とし、なかでも長命な硯は風雅を嗜む人々の愛蔵品となった。宇部市北部で採石される、6千万年前の白亜紀の噴火によってできた赤間石で作られる赤間硯は、古くは鎌倉時代の初めに鶴岡八幡宮に奉納されたという記録がある。毛利氏の時代には参勤交代の献上品として重宝され、一般の人は採石場のある山への入山が禁止されたという。粘り強度に優れた赤間硯は彫刻加工にも適しており、石目や美しい模様、独特の赤色を活かし、実用品でありながらも美術品・工芸品としてその価値が認められてきた。しかし、現在、伝統的な方法で硯を作り続ける地域は全国でもほとんどなくなり、それだけこの地域の重要性はこれまで以上に高くなっている。 萩焼は瀬戸内海側の山口市・防府市の境で採れる粒子の粗い大道土をベースに、萩市福栄村福井下金峯 (ふくえそんふくいしもみたけ) で採れる金峯土、萩沖の日本海に浮かぶ島で採れる見島土を精製・ブレンドした土で成形される。この広域にわたって採取された特徴あるブレンド土に釉薬をかけ、低い焼成温度で焼きを止めることで、貫入というヒビが生じる。使い込むうちに、このヒビに水分が浸みて表情が変化することを「萩の七化け」と呼び、今日もなお玄人の心を捉えてやまない萩焼独自の魅力となっている。 土とは鉱物、有機物、気体、液体、生物の混合物であり、古来より万物を生み出す霊力が宿っていると信じられてきた。
『大地の回廊』では、景観の素晴らしさを活かすとともに、土地のエネルギーを感じ、その恵みを体感することで、生きる力が回復されることを目指し、企画を組み立てたい。
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の回廊

現在の萩市に藩庁を置いた長州藩は、版籍奉還まで毛利家の治世が続いた。平安時代に菅原氏と並ぶ学問の名家であった大江氏をルーツとする長州藩の5代藩主吉元は、藩の明日を担う有能な人材を育成することを目的に藩校『明倫館』を創設。 続きを開く以来、約150年間にわたり、明治新政府にも政治家を多数輩出するなど激動の時代において文武ともに活躍する人材を数多く世に送り出してきた。長州藩を倒幕に方向づけた幕末維新の風雲児・高杉晋作もこの藩校の出身者である。高杉が師と仰ぎ、初代内閣総理大臣・伊藤博文が学んだ『松下村塾』の吉田松陰も、かつてはこの藩校で教佃を執っていた。 藩の人材育成に触れられる史跡の1つに萩反射炉がある。軍事力強化に金属溶解の技術が不可欠と考えた長州藩は、すでに操業に成功していた佐賀藩の反射炉を1855年に見学する。そのスケッチだけを頼りに築造した試作炉が現在も萩市内に残り、松下村塾などとともに世界遺産に位置づけられている。この反射炉は実用には至らなかったものの、当時の技術者育成にかける情熱をいまに伝えるとともに、その後の産業発展の礎となった。 明治の大文豪・森 鴎外を生んだ地として知られる津和野町は、日本最初の西洋哲学者・西 周 (にし あまね)、日本地質学の父・小藤 文次郎 (ことう ぶんじろう) 、日本脳外科の父・中田瑞穂 (なかだ みずほ) など、近代日本の黎明期を担った偉人を多く輩出した。藩校『養老館』は、11代にわたって津和野藩を治めた亀井家の8代矩賢 (のりたか) が創設。11代茲監 (これみ) の時代には「武」より「文」を重んじる教育方針に注力したという。我々が知的感性を刺激されたとき、それを言い表すために用いる「主観」「客観」「現象」「実在」「感覚」「知覚」「観念」「意識」などの言葉は全て、ここで学んだ哲学者・西周の造語である。そもそも「哲学」という言葉も西の造語。「芸術」も「科学」も「物理」もそう。自由な発想を柔軟に使いこなす創造者、知の巨人である。 『知の回廊』では、新たな時代の幕開けに大いなる知的感性で飛び込み、たゆまぬ努力で突き進んでいった萩市、津和野町の先人たちの意思を継ぎ、多分野にわたる学びを提供する事業をはじめ、主に子どもを対象とする想像力・創造力を誘発させる企画を考えたい。
この取組を通して、将来の高杉晋作や森 鴎外、そして西 周が生まれる一助となることを夢見て。
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の回廊

地域固有の風土が食材や調理法を育み、それにあわせて調味料や調理器具、食器などの創意工夫がなされる。これらの要素が組み合わさり様式や作法が生まれ、その土地ならではの食文化が形成される。 続きを開く三方が海に開けた山口県は、日本海や瀬戸内海の海の幸に恵まれているのはもちろん、沿岸部から山間部にかけての変化に富んだ地形と多様な自然条件により、果物や野菜の栽培も盛ん。重要なのは、この土地の豊かさや歴史的背景、生産者の想いをユーザーの体験に落とし込み、理解と共感まで昇華させる術を開発することだ。 『食の回廊』は、全市町村に共通するテーマである。
ものや情報が溢れているいま、どこにいても同じものが手に入るという便利さの一方で、地域の画一化や季節感の欠如が進み、果たして我々は豊かになったのだろうか? 食文化という地域固有の知恵や歴史は薄れ、同時にフードロスが大きな課題として表面化している。このような状況で大切にすべきなのは「風土・土地の個性」、つまりテロワールの概念ではないだろうか。気候、土壌や地形の特色も含め、その土地でしか生まれ得ないものを知ることこそが、食文化を伝え・育むことに繋がると考える。地域独自の物語や風景に目を向けることでしか味わえない、その土地ならではの食体験がある。人の基本的な営みである「食べる」という行為を通じ、その食文化が育まれた土地を想い、作り手を想う生活が実現できたならば、私たちの環境は大きく変化していくのではないだろうか。たとえば、この圏域を構成する全ての市町に酒蔵があること。それは硬質・軟質の水が混在するような自然環境に恵まれているということだけではなく、なによりも蔵人の努力の賜物だ。しかし、中には生産量が少ないため全国への流通が難しく、この土地でしか味わうことができないものも少なくない。国際的なブームも追い風に成長を遂げ全国にもファンが多い山口県の日本酒だが、博覧会では「この地でしか飲むことができないこと」「銘柄ごとに適した料理をマリアージュさせること」「作っている人の顔が見えること」を前面に打ち出したい。
『食の回廊』では、実行委員会主催の事業として「地域 × 食 × アート」をテーマに、7市町の食材を用いたスペシャルなイベントをユニークベニューで開催する。
それとともに、食を取り巻く環境を見つめ直し文化として未来へ繋いでいくことを目指し、各市町でも食に関する事業を実施したい。
実行委員会事業が1日限りの大きなイベントであることに対し、各市町でおこなわれる取組は会期中継続的に実施されることが望ましい。たとえば、実行委員会事業で開発したメニューが、各市町のレストランなどでの特別メニューとして提供されたり、この事業に関わるフードコーディネーターが開発した商品 (加工品など) やデザイナーによるリパッケージ品などが、総合インフォメーションセンター及び各市町の道の駅などで販売されることを想定している。これらの事業によって、圏域全体や各市町の魅力を全国に発信し、地域の仲間・ファンが生まれるサスティナブルな取組となるよう丁寧に育てたい。
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